2006年09月28日

長文投稿テスト


 老人がカーテンを開けると、黄昏の光が部屋を真紅に染めた。
 勧められるままに、二人がけのソファーに腰を下ろすと、老人は「コーヒーでいいかな」と言った。
 僕が頷くと、老人はキッチンに立ち、豆を挽き始めた。
 コーヒーミルが豆を挽く音を聞きながら、僕は対面にある一人がけのソファーの向こう、北側の壁一面を覆う、巨大な織物を眺めた。
 そこには、人の顔をした蜘蛛と、蜘蛛の口から吐き出される網、それに網に囚われた無数の動物が描かれていた。
 いや、動物だけではない。網の中には草原があり、月や星があり、虹のようなものまで描かれていた。
 アフリカかどこかの、神話の一ページと思しいその光景は、昼でもなく夜でもない時間にあって、今にも動き出しそうに見えた。
 豆を挽く音が消え、右手のキッチンに目をやると、ヤカンを掛けたコンロの火を調節した老人が、ピース缶を二つ持ってこちらにやってきた。
 ソファーに腰を下ろし、僕との間にあるガラステーブルに二つの缶を置く。蓋を開けると、一つは灰皿になっていた。
「一本どうだい」
 頷いて、老人が差し出した缶から一本抜き取った。白い巻紙は葉を綺麗に巻き込んでいるが、工場で作られたものではなかった。
「これはな、俺が巻いたんだよ。故郷の煙草でね。この国じゃ扱ってないものだから、自分で巻くしかないんだ」
 ライターを取り出し、くわえた煙草に火をつける。軽く吸い込んで吐き出すと、煙とともに甘い匂いが漂った。
 僕の顔を覗き込んでいた老人は、人懐っこい笑顔を見せると、一本抜き出し、取り出したマッチで火をつけた。煙を吐き、
「いいだろう。あれがそうなんだ」
 と言って、窓のほうを指差した。
 老人の指先を追うと、西日射す窓の傍に、高さ十センチほどの草が植わったプランターがあった。草の茎は太く、菱形の葉が生えている。プランターの傍には、乾いたキッチンペーパーが広げてあり、その上にはよじれて縮み、黒く変色した葉のようなものが載っていた。
「安心しなよ、ヤバいものじゃない。まあ、勝手に育てて勝手に吸ってるのが合法かどうかは知らないから、嫌ならやめてもらっていいんだぜ」
 僕は一瞬ためらったが、好奇心を抑えられなかった。
 得体のしれない老人だが、悪い人ではなさそうだし、先ほど公園で再会したときには、こちらから一本進呈している。
 それに、もう吸ってしまっているのだ。一本くらいなら、どうってことはないだろう。
 煙草を吸いながら、僕は先ほどの老人との再会を思い出す。
 日曜の昼下がり、図書館に借りた本を返しに行った帰り、図書館に併設された公園のベンチで見覚えのある老人を発見した。
 彼は、僕がまだ幼い頃、子供向けに図書館が催す「お話の会」にやってきて、地域の昔話をするおばあさんや、昔紙芝居屋を営んでいたというおじいさんと一緒にいて、怪奇幻想味の強い話を、臨場感たっぷりにしてくれた老人だった。
 日夜パソコンに向かい、物語を送り出す小説家となった今なら判ることだが、彼がしてくれた「お話」は、国際色豊かなラインナップで、それこそ実際に世界中を回って集めてきたかのようだった。ウェールズの民話、タイの都市伝説、中国の妖怪話など、その手の文献を漁れば見つかるようなものから、「ニタリ貝」――実在する貝の二つ名で、その呼び名の由来が、亡妻の怨念が女性の「ある部分」となって具現化し、浮気な夫を襲ったためだという話――のような、どんな文献をあたっても見つからないものまである。
 そういう話を最前列のかぶりつきで聞いていたためだろう、僕は物語の魅力とでも言うべきものに取り付かれ、気がついたときには、駆け出しとはいえ小説家と名乗ることができるようになっていた。
 その恩を感じた――というわけでもないのだが、懐かしさに誘われるまま、ベンチの老人に挨拶すると、果たして彼も僕のことを覚えていた。自分の職業とともに、老人の語り口やレパートリーにいまさらながら感心したことを伝えると、老人は我がことのように喜んでくれた。
 そして、
「あんたが喜んでくれそうなものがあるんだが、今から受け取りにこないか」
 と言い、自宅だというマンションの一室に、こうして招き入れてくれたのだ。
 ――キッチンから、湯が沸いたことを報せる笛の音が聞こえた。老人は、灰皿になっている方の缶に吸殻を落とすと、キッチンに戻っていった。
 やがて戻ってきた老人は、両手に陶器のコーヒーカップを持っていた。香ばしいコーヒーの香りが部屋中にあふれる。
 差し出されたカップを受け取ると、老人は一人がけのソファーに戻った。
「何も入れずに味わってくれ。さっきのこいつとの相性で、砂糖もミルクも要らないはずだから」
 新しい煙草を抜き出して老人が言う。僕が頷いて、一旦テーブルに置いたカップを取り上げる間に、老人は煙草に火をつけ、煙を吐き出してから、カップに口をつけた。
 喉を鳴らしてコーヒーを飲み、また、あの嬉しそうな顔をした。
 老人にならって、僕も煙草とコーヒーを味わってみた。
 コーヒーの味は、苦味と酸味のバランスから、ブルーマウンテンかと思われた。しかし、老人の故郷のものであるという、甘い煙草の味と交じり合い、これまで味わったことのないコクが舌に残った。
「な、上手いだろ。煙草とコーヒーってのは、昔から相性がいいのさ」
 僕が喜びを伝える笑顔を見せると、
「やっぱりな、坊やとは気が合うと思ってたんだ」
 老人はそう言うと、あの人懐っこい笑みを満面に浮かべて、新しい煙草に火をつけた。
 つられて、僕も吸殻を灰皿缶に落とし、新しい一本を抜き出した。火をつけ、コーヒーを一口、舌に残るコクを楽しみながら、そもそもここに来た理由を思い出した。
 僕の考えを察したのか、老人は灰皿缶に灰を落としながら、
「いや、あんたにやりたいものってのはこれじゃないんだ。小説家先生にプレゼントするのが、煙草とコーヒーってんじゃ怒られる」
 そして背後を振り返り、壁に飾られた織物を指差して、
「これさ」
 と言った。
 僕はカップを置き、煙草を一吸いして、改めて壁の織物を眺めた。
 極彩色の糸で織られた織物は、蜘蛛が吐き出した糸で獣を捕らえる様を描いている。
 ふと、その蜘蛛の顔が、正面に座る老人のそれに思えて、僕は目をしばたたいた。
 そういえば、この老人は痩せて背が高く、その細い手足は蜘蛛を思わせる。
 僕の、そんな益体もない考えに気づいたはずもないだろうが、老人はその長く細い手を広げて、煙を部屋に振りまいた。煙にさえぎられて、蜘蛛の顔は見えなくなった。
「これには『アナンシの物語』って名前がついている。アナンシってのは蜘蛛の神で、人間を猿から進化させたんだ。その物語を織り込んだのが、この織物ってわけだ」
 その話は知っていた。アナンシはジャマイカの神話に出てくる神だ。北欧神話のロキや、日本神話のスサノオなんかと同じ、トリックスターだったはず。
 しかし――『アナンシが猿を人へ進化させた』ってのは、どういうことなのだろう。
「どういうこともなにも、そのまんまの意味さ。アナンシが手助けしなきゃ、人は昔のまんま、弱っちい毛なしの猿のまんまだったはずだ」
 老人はどこか誇らしげにそう言うと、吸殻を捨て、新しい煙草に火をつけた。
 こちらに顔を向けたまま吐き出したので、僕は甘い煙をまともに吸い込んでしまった。
 さすがに直接吹きつけられると、煙の甘さが喉に絡む。僕はコーヒーを飲み、喉を潤してから、老人を見た。
「詳しく聞きたいって顔だな。ちっちゃいころのあんたも、そんな顔して俺を見ていたっけ。――いいぜ。元々そのつもりだったからな。まずはこの話からだ。
 昔々、世界の真ん中に、天の神の住処まで届く大きな木があった。蜘蛛のアナンシはその木に住んでいた。ある日、木の下に集まった生き物達が、それぞれの自慢を始めた。ライオンが自分達は世界で一番強いといい、コンドルが自分達は世界で一番高く飛べるといい、象が自分達は世界で一番大きいといい、亀が自分たちは世界で一番長生きだとか、そんな風に。するうち月や星までやってきて、自分は世界で一番美しいとか、自分達は世界で一番数が多いとか言い始めた。アナンシが尻から出した糸で枝にぶらさってその話を聞いていると、月がそれを見つけて、アナンシに『お前は何か自慢できるものがあるか』と聞いた。アナンシは少し考えてから、自分はこの世界の誰にもできないことができる、といった。それを聞いたみんなは大笑いして、アナンシを馬鹿にした。
 そこでアナンシは枝の上に戻り、七日七晩糸を吐き続け、続く七日七晩をかけて、大きな網を三つこしらえた。網が出来上がると、アナンシは木のてっぺんまで上り、天の神にいった。『神様、俺はこれから世界の誰にもできないことをします。首尾よくやりおおせたら、あなたの宝物を一ついただけないでしょうか』。神はわかったといった。
 さて、木を下りたアナンシは、まず世界の果ての岩山に行って、月が昇るのを待った。夕暮れになり、月が顔を出したとき、アナンシは一つめの網を投げて、月を捕まえた。月が捕まったので、世界の夜は暗くなった。次に、世界で一番大きな海に行ったアナンシは、そこに二つめの網を投げて、海に映る星々を捕まえた。星々も捕まったので、世界は一層暗くなった。
 アナンシ以外の生き物たちは、いきなり世界が暗くなったので驚いた。物知りのウサギとにかくあの木の下にいって、天の神にお願いしようとい言い出し、夜目の利くフクロウの先導で、生き物達はそろってあの木の下に向かった。さて、そこで、誰が天の神に話をしに行くかということになったが、コンドルは暗くては飛べないからと断った。そこで木登りの得意な猿が行くことになった。
 猿が木を上り始めたころ、こっそり木に戻ってきたアナンシは、木の下に集まった生き物達に三つめの網を投げ、これを総て捕まえてしまった。そして、三つの大きな網を素早く織り、一つのとても大きな網を作り上げると、猿の足につけておいた糸を手繰って、猿に追いついた。アナンシが追いついたとき、猿は疲れて眠っていた。アナンシは猿を追い越し、天の神が現れる前に、木のてっぺんにたどり着いた。
 やがて天の神が現れると、アナンシは大きな網を取り出して、自分のしたことを告げた。天の神はそれを見て、『まさに、お前は世界の誰にもなしえないことをした』といい、アナンシに言葉を捕まえる網を授けた」
 そこまで一息に話し終え、老人は煙草の先の長い灰を灰皿缶に落とした。
 いつの間にか自分の煙草もほとんどが灰に変わっていることに気づいた。
 老人は新しい煙草に火をつけ、僕も新しい煙草に火をつけるのを待って、
「ところがこれで終わりじゃない」
 といった。
「地上に戻ってから、アナンシはさっそくその網を使ってみた。網を投げると、相手は網からすり抜けるけれど、そいつの持っていた言葉が残る。網を糸にほぐして、糸車に結ぶと、糸車が捕まえた言葉を喋るんだ。アナンシは面白くなって、何度も何度もその網を使った。そして様々な生き物の秘密を集めた。亀はなぜ長生きなのか、コンドルはなぜ高く飛べるのか、月はなぜ輝くのか、そういった秘密だ。
 そこで、アナンシの悪い癖が出た。アナンシはそのことを誰彼かまわず言いふらしちまったんだ。自分は世界の秘密を知っている、それは他の生き物よりも天の神に近づいたことなんだ、ってな。
 今思えば、それがいけなかったんだな。天の神によってアナンシの網から解き放たれた生き物達、それに月も星も、アナンシの自慢を快く思わなかった。確かに、アナンシの網の素晴らしさは認めたが、それにしたってお前の秘密を知ってるぞと言われ続けるのはたまらない。しかもアナンシの自慢は毎日毎日、それこそ七日七晩続いたので、最初は愛想良く相槌を打っていた我慢も限界にきた。
 そこでアナンシを懲らしめようということになった。ミツバチに集めさせた蝋で人形を作り、アナンシの住む木の下に座らせると、遠くに隠れて見守った。
 さて、いつものように自慢話をしようと木から下りてきたアナンシは、木の下にぽつんと座るやちに気がついた。みかけないやつだと気づいたが、すると俺の話を知らないかもしれない、と思ったアナンシは、そいつに近づき、まずさっきの話、神から贈り物をもらうのにどうしたかを話した。ところが相手はお愛想の相槌すら打たず、ぼんやり座っているばかり。面白くないアナンシは、今度は自分が捕まえたいろんな秘密を話した。だけど相手は黙っているばかり。いい加減頭にきたアナンシは、そいつに殴りかかった。ところが相手は蝋人形、アナンシの手はねばねばに捕まってしまった。驚いたアナンシは、今度はそいつを蹴り飛ばそうと思った。ところが相手は蝋人形、アナンシの足も手と同じく捕まってしまう。アナンシはすっかり身動きがとれなくなってしまった。
 やがて夜になり、生き物達が現れてアナンシを取り囲んだ。アナンシは蝋人形と生き物達をののしったが、どんなにののしっても無様な姿、生き物達の笑いを誘うばかり。そこでアナンシは、『俺を離さないと、お前らの秘密を喋ってやるぞ』と叫んだ。
 ところが、それは逆効果だった。アナンシがなんとか生かしておかれたのは、秘密を知っているとはいっても、具体的には何も喋らなかったからだ。このままでは秘密を喋られてしまう、と考えた生き物達は、アナンシを殺そうとした。
 まずライオンが蝋人形に囚われたアナンシに近づき、手を噛み千切りった。次にコンドルが別の手をついばんだ。ネズミが手をばらばらにし、象が足を踏み潰し、ジャッカルが巣を持ち帰り、イノシシが足を泥に埋めてといった感じで、総がかりでアナンシから手足を奪った。
 アナンシは許しをこうたが、誰もアナンシを苛むのをやめない。生き物達と同じく、アナンシに捕らえられた月も星も、アナンシには味方しない。ただ黙って死んでいくアナンシを見下ろすだけだった――」
 そこで、指先にちくりとした痛みが走って、僕は煙草を取り落とした。いつの間にか、煙草の火が指先まで来ていた。
 老人の語り口に引き込まれていた自分に気づき、僕は吸殻を灰皿缶に落とした。
「やがてアナンシの手足はなくなり、あとは身体を残すだけになった。そのとき、アナンシは、生き物達の無惨な行いを、木の上から見下ろしている猿がいることに気づいた。
 アナンシは言った。『俺はこのまま死んでいくだろう。それはいい。だが、あの木の上の猿はなんの咎めも受けないのか。猿が居眠りしなければ、俺より先に天の神様のところにたどり着いていたぞ』。
 生き物達はいっせいに木を見上げ、猿を見つけた。猿はアナンシの責め苦を見下ろしていたので、他の生き物達が恐ろしくなった。逃げようとしたが、コンドルが舞い上がるより早く木を上ることはできなかった。
 地面に引き摺り下ろされた猿に、生き物達は『今の話は本当か』と聞いた。猿は泣きながら本当だと言った。生き物達は怒り出し、今度はみんなで猿の毛を毟ってしまった。
 さて、猿が丸裸にされたところで、生き物達はアナンシがいないことに気がついた。蝋人形に捕らえられていた手足がなくなったので、どこかへ逃げたのだろうと思った生き物達は、手分けしてアナンシを探した。月も星も、夜中世界を照らしながらアナンシを探した。しかし、アナンシは見つからなかった。
 そのうち、生き物達はアナンシを探すことをやめてしまった。他にもっと大きな問題が持ち上がったからだ。それは――」
 そこで老人は言葉を切り、僕を見つめた。
 その手には新しい煙草があり、あの甘い煙を立ち上らせている。
 煙は部屋中に甘い匂いを振りまき、黄昏の光の光を煙らせて、光と煙が交じり合って層をなし、踊る煙と光の中でこちらを見ている老人、その背後で、あの織物が動いていた。
 織物の中の糸が振るえ、描かれる動物達がうごめき、月や星や輝き始めた。
 糸を吐く蜘蛛の顔が微笑み、人懐っこい笑みを浮かべる。
 なんだこれは――そう思って、目の前の煙を払おうとした僕は、しかし自分の手が痺れて動かないのに気がついた。
 驚き、目を見張ると、老人が煙草を口に運び、煙を吐き出すのが見えた。
 煙はすぼめた口から細く、細く、いつまでも吐き出され、それは僕の身体をソファーに巻きつける白い糸となっていて――。
「猿だよ」
 と老人がいった。
「毛を毟られた猿が、世界の王になったんだ。ライオンを殺し、ネズミを地の底においやり、コンドルを狩り立て、我が物顔で世界を歩き回るようになったんだ。
 驚いた生き物達は、木の下でそうしたように、今度も集まって猿と戦った。だけど、猿には勝てなかった。猿はライオンの強さの秘密を知っていた。ネズミの仲間の増やし方を知っていた。コンドルの高く飛ぶ方法を知っていた。亀の長生きの秘訣を知っていた。ということは、それを破る方法も知っていたってことだ。こうなってはかなわない。生き物達は次第に毛のない猿に従うようになっていった」
 言いながら、老人は立ち上がり、ソファーの裏に回った。
 煙草を口に運び、吐く煙を僕の身体にまといつかせながら、手を伸ばした。
 手は伸び、途中に節を作りながら天井まで届き、壁の織物を止めていたピンをはずした。
「しかも、そうして世界の王になった猿は、今度はどこからか持ってきた糸で、織物を織り始めた。織物には色々な物語が描かれていた。生き物の秘密、月や星の秘密、それにありえない、未来の物語。
 それまでの物語は、すべて過去に起こった事実を語り継ぐものだったが、猿が織る織物に描かれるのは、ありえないものや未来の景色だった。毛のない猿が地上を歩き回り、他の生き物を従え、やがては月や星までも手を伸ばす物語。
 そしてそれはすべて本当になった――アナンシのおかげで。アナンシの知恵と、アナンシが神から授かった『言葉を捕まえる網』、それをほぐした魔法の糸のおかげで、な」
 老人はそう言うと、煙を吐くのをやめた。織物をソファーに掛けると、端から飛び出している糸をつまみ、一気に引き抜いた。
 そしてその先を口に含み、するすると吸い込み始めた。
 僕は身動きできないまま、その光景を眺めていた。
 黄昏の光の中、糸は切れ間なく老人の口に吸い込まれ、織物は次第に小さくなっていく。
 ――やがて、糸の端が老人の口に消え、織物は跡形もなくなった。老人は嬉しそうな笑みを見せ、口を開くと、こちらに近づいてきた。
 近づいてくる老人を、僕は呆然と眺めていた。
 ある予感があり、それがこの得体のしれない老人に囚われているという、異常な状況からくる恐怖を打ち消してしまっていた。
「俺だよ」
 と、口をあけたまま老人がいった。
 いや、老人ではない。老人の口の中にいるものがそう言ったのだ。
「俺が猿どもに知恵を授けてやった。猿どもに魔法の糸を与えてやり、それを織り成す『物語』を与えてやった。猿どもは知恵をつけ、けだものたちを従えた」
 そいつがいった。
「しばらくは安泰だったよ。猿どもと面白おかしく暮らした。象を殺して牙を奪うのも、いつでも腹いっぱい食べれるように草木を育てるのも、魚や貝の採り方も、教えてやればやつらは喜んでやったよ。俺のことを神様だと思ってたからな。偉大なる蜘蛛、だとさ。だから俺は、あいつらに教えて、結果を待ってればいいだけだ。糸を織れば魚が取れる。いいだろう、蜘蛛らしくて。
 だけど、そのうち俺は失敗したことに気がついた。猿どもが増えすぎたこともそうだが、あいつら増えていくときに、俺の物語を持って行った。世界中に散らばって、そこかしこで勝手に物語を作り始めた。俺だけがそうできたのに、俺のおかげでそうなったっていうのに。
 ロキだと? スサノオ? トリックスター? 笑わせるな。真に偉大なのはこの俺、アナンシ様だけだ」
 ソファーの傍に立ち止まった老人の、口の中にいるものが笑う。
 その声は、幼い頃に聞いたものと同じく、聞くものを語りの世界に引き込む声だった。
 その声がつむぐ物語は、たとえそれが絵空事に過ぎなくても、「本当にそうであったに違いない」と信じ込ませる声だった。
「だが――あいつら、気がつきやがった。俺の居場所に気がつきやがったんだよ。足のない蜘蛛が猿の口に隠れた、そう気づいたんだ。そりゃ気づくよな、猿が俺と同じことしてるんだから。猿真似ってのは、こういうことを言うんだよな。まあ、元々独創性のないやつらだったから、不自然だったのかもな」
 老人――いや、老人の口の中にいるものはそういい、老人の手で僕の肩をつかんだ。
「あいつらは密かにお前達を狩り立てた。俺と、この織物を探すためだ。魔法の糸で織られた、俺の物語。俺が物語を手に入れた物語。これが失われることに、俺はなんのためらいもない。だが、やつらにこれを渡せば、やつらはこれでやつらの物語を織り上げる。そして俺は今よりもっと見つかりやすくなる。そうすれば、今度は手足を失うだけではすまない。完全にこの世から消される――そういう物語を織られてしまう。だから――」
 老人の手が僕の顎をつかみ、僕の口を開かせた。
 老人の口が近づいてくる。老人の口の中でうごめくものが、糸を吐き出した。
 吐き出された糸は、茜に染まる煙の糸ではなく、極彩色の織物だった糸だ。
 糸は吐き出したものの意思によるものか、するすると僕の口に吸い込まれていく。
「これが終われば、次はお前に飛び移る。この年よりはそろそろ危ない。ライオンの末裔が、ディンゴの同胞が、コンドルの盟友がこの年寄りを狙っている。あの月が、俺を見つけたのだ。あの星々が、俺の居場所を報せたのだ。おい、抵抗するなよ。俺はお前たちの進化を助けてやったのだ。そういう物語を織ってやったのだ――」
 やがて、糸の切れ端が僕の口の中に消えた。
 老人は満足そうに頷き、人懐っこい笑みを消した。
「いい子だ。小説家ってのはみんなこうなのか? 俺や、坊やと同じく、お話が好きで好きでたまらないのか。だったら、人間てのは――」
 そして、老人の口から抜け出したものが、くるりとこちらを向き、懐かしい笑みを浮かべた。

 ――すべてが終わり、僕が老人の家を出たのは、日が落ちてからだった。
 老人は死んではいないようだった。ソファーに横たえた彼の顔は、見知らぬ老人のそれだった。
 マンションを出ると、月が夜道を照らしていた。星が空に瞬いていた。
 そして、彼らがいた。
 街灯が照らすアスファルトを避け、闇にまぎれて無数の猫や犬がいた。
 歩道の並木には、カラスとハトが、鈴なりになって止まっていた。
 それらの、異常とも思える数の目が、じっと老人の住む部屋を見上げているのだった。
 僕は彼らの目を逃れて、押し黙ったまま歩いて家へ戻った。
 本当は自分の成功を喋りたくてしょうがなかったが、そこは長年の知恵でぐっとこらえたのさ。第一、話を聞かせてどうする。あいつらはいつだって苦りきった顔をする。そうさ、俺の成功がねたましいんだ。
 老人が死んだ、という話は、担当の編集者からもたらされた。彼は僕の家を知っている。その近所で起こった異常な事件だったから、彼も耳にしたのだろう。
 老人は、あのマンションの部屋で、ずたずたに切り裂かれた死体となって発見された。警察は殺人ではなく事故と断定した。老人の身体をずたずたにしたのが、刃物はなく、犬の牙や猫の爪、カラスやハトのくちばしだと判ったからだ。
 まさに、俺たちは間一髪だったってわけだ。
 家に帰って最初の一週間は、織物を再現するのに使った。
 次の一週間は、僕の考えで、この物語を書いた。
 俺はインターネットとかいうもののことを知らなかったが、
 僕が教えた。それの別の呼び方を教えてやると、
「なんだ、人間も結構やるもんじゃないか。俺がいなくても進化してたとは。物語のセンスなら俺の方が上だが、なかなかどうして、『ウェブ』とはね」
 俺は言った。
 そして、煙草に火をつけた。

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